2004年09月22日

以前の記事でご紹介の予告した、木を見る西洋人 森を見る東洋人であるが、かなり難儀している。

ボリュームがヘビーなだけでなく、哲学の話が至るところに現れ、純粋培養理科系のMasaGonにとってはかなり辛い。読解速度はいつもの半分ほどか...

そんな訳で、お楽しみの書評はもう暫くお待ちいただきたい。

今日は、ブログを発端に「主と従」というテーマでコラムを書いてみようと思う。


「最近ブログ書いてるんだけど...」と言うと、流行に敏感な人なら「へぇ、どんなこと書いてんの?」などという返事が返ってくる。しかし「ブログ」という言葉自体を知らない人だと説明に難儀することとなる。

熊 「ブログって何でぃ?」
八 「掲示板みたいなもんさぁ」
熊 「何でぃ横文字なんぞぉ使いやがって!はなっから掲示板って言やぁいいじゃねぇかぃ!」
八 「いやだけど掲示板じゃぁねぇんだなこれが」
熊 「じゃぁどこがどう違うって言うんでぃ?」
八 「それはな、トラックバックっつうのがあってな...」
熊 「なんだぁ、うまそうなぁ名前だなぁそりゃぁ」

ってなことで、ブログを知っている人でも実際に掲示板との違いをきちんと理解している人は少ない。

よく挙げられる違いとしては、


  • 記事の投稿順に表示され、最新記事は常に一番上に表示される。
  • トラックバックがつけられる。


などというものがあるが、私はこれらは大した違いではないと思っている。

私が特に注目しているのは「主と従」の明確な切り分けである。

一時期メーリングリストに続いて掲示板がはやったことがあったが、今では適切なクオリティを維持している掲示板は少ない。その99%はゴミ箱と化している。

対してブログはその登場時から高品質のテキストコンテンツを世界中に提供し続けていると言っても過言ではない。

この分かれ目こそが、「主と従」の明確化によってもたらされていると私は考えている。つまり掲示板では例え管理人が適切な管理をしたとしても、不特定の書き込み者全員が「主」であり「従」であるのだ。

もちろん運用により、管理人を「主」と位置づけることは可能であろうが、あまり管理人ばかりが発言すると、「従」になるのを心良しとしないビジターはどんどん逃げていくことになる。管理人しか書き込まない掲示板など屍同然である。

逆に管理人が「主」の業務を怠れば、いわゆる「荒らし」の登場で無法地帯となり、やがてビジターは離れていく。

それを防ごうと誹謗・抽象の書き込みを削除すれば、今度は恣意的な運用と非難される。全く踏んだり蹴ったりだ。

対して、ブログではこの関係は極めて明確だ。ブログの書き手はそのサイトの一国一城の主であり、そこでテキストコンテンツという「振舞い酒」を提供し、ビジターは手土産に「コメント」や「トラックバック」を置いていくわけである。

皆が帰った後に城に残された「不愉快なコメント」というゴミを捨てるのも自由である。素晴らしいビジターの置き土産を皆の目の触れるところに飾っておくのも自由である。

ビジターも主がその城をきちんと管理してくれているからこそ、楽しい思いが出来るわけである。

私は全ての組織において、この「主と従」の関係は明確にしておかなければならないと思っている。

かつては「人類みな兄弟」的な発想から、全ての人が平等に発言し、平等に意見を出し合い、総意で物事を決める組織運営が理想だと思っていた。しかし私は、最近このやり方は最終的には全くうまく行かないという事がわかってきた。

「平等に意見を出し合う」ところまでは良いのであるが、その意見を踏まえて決定するのは誰であるのかを、きちんと決めておかねばならない。「主」を据えるのである。

それをしないで起こる現象は、掲示板で発生する現象と全く一緒である。周りが逃げていくか、喧嘩になるか、皆が無関心になるかである。

考えて見れば、我々が組織の中で思う存分安心して意見を出し合えるのは、「主」の存在があるからである。最終的には「主」が決定権を持ち、その決定に対して全責任を持ってくれるから好きなことが言える。

もし自分がごり押しした意見が、何の抵抗もなく受け入れられるとするならば、多くの人は怖くて何も言えなくなるはずだ。社長が社員の言いなりの会社は、ワンマン社長の会社と同様、こうして誰も何も言わなくなって崩壊するのであろう。

物事には「主と従」が必要である。







(03:56)

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