2005年05月02日

MasaGon日記ファンの皆様、またまたご無沙汰ででございます。
最近は自らのペースで気が向いた時に書くというのが、心地よくなってきた。
こんな状態でも、毎日見に来てくれている奇特な方がいらっしゃるようで(笑)、本当に嬉しい限りである。

今日は久しぶりに、少々重い話題に触れてみようと思う。皆さんご存知の、JR福知山線脱線事故についてである。


テレビのワイドショーでは、信じられないほど低レベルなコメンテーターが好き勝手な推測や目的の無い不毛な議論を連日繰り広げている。あれはあれでエンターテイメントなので、別に良いとは思うのだが、どうすればこのような事故を防ぐ事が出来るのか、という本質の本質を突いている番組は、MasaGonの視点からは皆無のように思われる。

MasaGon的解決策は、ズバリ「許し」である。運転手を「許し」、車掌を「許し」、JRを「許す」事である。あえて批判を恐れずに言えば、第三者のみならず、被害者や遺族も含めて、彼らを「許す」事である。

あれだけの大事故を起こしておいて、そんな気持ちになれるはずが無いと言われるかもしれない。確かにそれは理解できるし、今すぐにそんな気持ちになれと言われても無理だろう。しかし、関係者全員が最も早く幸せになれる方法は、出来るだけ早くに全員が許しあう事しかないとMasaGonは考える。

この件に限らず、事故を起こせば最終的に刑事、民事を含めた長期の裁判に発展するのが常である。時には何十年もの歳月を要する。しかし、そこで最終的に両者が得られるものは一体なんであろう。金であろうか、名誉であろうか、責任の所在であろうか。いずれにせよ亡くなった方は帰ってこない。

「許す」事は責任者を甘やかす事になると考える方もいらっしゃるかもしれない。しかし人間はそれほど単純なものではないとMasaGonは考える。例えば、あなたがこの事故の運転手であって、かろうじて一命と取りとめた事を想像していただきたい。そして、遺族と被害者全員から、心からから「許された」場面を想像して頂きたい。果たしてあなたは解放的な気分に戻れるだろうか。MasaGonは決してそうは思わない。

恐らく、一生罪の意識を背負って生きていくことになるであろう。それに比べたら実刑など取るに足らないものかもしれない。むしろ、賠償や実刑というのはある種の免罪符にしかなり得ないのではないだろうか。

そして、さらに悪い事に、人間というのは、責められれば責められるほど意固地になるという性質を持っている。MasaGonは、罪の意識を感じない人間など、どんな凶悪犯罪をはたらいた人であれ、誰一人としていないと信じている。問題は、それを「常識人」に対して分かるように表現できるかどうかの問題である。ましてや、過失であればなおさらである。

人はまた、常に責められ続ければ、それに「適応する」という能力を持っている厄介な動物でもある。なぜなら、適応しない限り精神的におかしくなってしまうからである。ある意味、自己分裂を避けるための自己防衛能力と言える。数々の企業不祥事において、多くの経営者が、開き直りとも取られる態度を示す理由はここにある。時として開き直るか、自殺に追い込まれるかの二者択一を迫らるのである。

そこに来て、マスコミはメディアの名の下に、正義感を振りかざしてここぞとばかりに攻め立てるのである。でも、本当は、彼らにとっても相手が反社会的に見えれば見えるほど、記事として面白く、突っ込みがいがあるわけで、利害が一致しているわけである。

「当事者全てが、平安な気持ちになれること」これこそが今回の事故において、目指すべき最終目的ではないだろうか。しかも、出来るだけ遠回りをせずにそこに至る事が重要であると思う。

MasaGonは「責める」事はそこに至るための著しく遠回りな道のりに思えてならない。責められれば守ろうとする。責任を追及されれれば、事実を隠そうとする。プレッシャーをかけられれば、そのプレッシャーは弱い方へ弱い方へと向っていく。今回の事故だってそういう流れの中で必然的に起こった事象なのではないだろうか。

運転手は事故前の停車駅のオーバーランについて、乗客から怒鳴られたという記事も見かけた。怒鳴った乗客だって、高々1分や2分の遅れでそこまで怒らなくてはならない理由は、恐らくその人の外部にあると思う。例えば、数分の遅刻に対して減給を課す会社のシステムであったり、本人の責に帰さないミスを過度に責める上司であったり。これって、今さかんに言われているJR西日本の内部事情にそっくりなのではないだろうか。

結局、世の中の「怒り」はお金のようにぐるぐる回っているという事である。「笑顔」や「喜び」、「許し」だってそうである。「怒り」は世の中に「怒り」の連鎖を生み出し、「許し」は「許し」の連鎖をもたらすのである。

だったら、自分こそが「怒り」を「許し」に変換する「許し」の泉になったらどれだけ幸せになれるであろうか。そして、そこから「笑顔」の連鎖が世界中に感染していったら、どれほど幸せであろう。

戦争など大袈裟な例も上げるまでもなく、多くのMasaGon日記ファンの皆さんは、既にその事に気がついているのではないだろうか。






(00:42)

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この記事へのコメント

1. Posted by Haruna   2005年05月04日 00:05
どうも。今日も練習お疲れ様でした。
今日話題にあがったMasaGonさんのこの記事を読んでみました。
とてもキリスト教的な考えですよね。
人間は生まれながら罪深くて、そのことに対して神に許しを請うという・・・(ことでしたっけ?)。
小さなことにいらいらする自分がもっと寛大になれたらと思う今日この頃なんですが。

僕も、許しと理解が世界平和への大きな一歩であることは確かだと思います。
2. Posted by MasaGon   2005年05月04日 00:44
>Haruna君、

おぉ、コメントありがとう!本日はお疲れ様でした。
Haruna君はクリスチャンでしたっけ?

私は残念ながら、今のところNo Religionなのですが、確かに言われてみればキリスト教的考え方のような気がします。というより、仏教的と言われれば仏教的、イスラム教的と言われればイスラム教的なのかもしれませんが。
(私はこれらには非常に共通点が多いと感じています)

もちろん、それぞれのReligionに対しては個人的に敬意を持っていますし、これらを学ぶ事により、より豊かな心になれると感じています。節操が無いのかもしれませんが、私の場合その全てから学べるものは多いと感じていますし、実際にそこから学ぼうと努力しています。

でも、多くの宗教において「許し」の大切さは説いているものの、許す事が出来た人間こそが、本当の意味で豊かになれ、もっと言えば人生において「得」を出来るという事は、(少なくとも日本では)あまり強調されていないように思います。

その理由は未だに良く分かりません。日本なりの価値観によるものなのでしょうか。それとも、Religionにおいては「得」をするという考え方はご法度なのでしょうか。

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